竹淵郷社縁起 その1

最終更新: 2019年10月31日



竹渕神社はいつ頃、どのような経緯で、この地に創祀されたのでしょうか?


当村の光正寺に伝承されてきた、『竹淵郷社縁起』(以下、郷社縁起)を取り上げて、その歴史を紐解いてみましょう。


以下に郷社縁起の原文を引用し、順次意訳と解説を加えます。(原文は適度に読みやすくするため、句読点を加えたり表記を変えています)


それ、河内国渋川郡竹淵村は五ヶ郷の一にして、多迦不知の郷と旧記にも見へ侍る。

意訳:

そもそも、河内国渋川郡竹淵村は、五ヶ郷のひとつで、古い書物にも「多迦不知の郷」と記されている。


解説:

五ヶ郷とは、河内国渋川郡に所在していた5つの郷(律令制の地方行政区画のひとつ)のことで、平安時代中期の辞書『和名類聚抄』巻の六には、「河内国渋川郡 竹淵(多加不知)、邑智、餘戸、跡部(阿止倍)、賀美」とあります。


和名類聚抄 コマ番号45-46


地元の人は「竹渕」と書いて「たこち」と呼び習わしていますが、古くは「多迦不知(たかふち)」と呼ばれていました。竹(たけ)は他の語の上に付いて熟語を作るとき、音が「たか」に変化します。(竹叢(たかむら)・竹玉(たかだま)など)


上古、神武天皇、日向国より岩船の山へ越し給ふ時、当国長髄彦襲ひ奉りしに、当郷の大竹藪の中へ入らせ給ひ、しばらく皇居成し給ふを、長髄彦が目には深き淵の中へ入り給ふ神変と恐れ奉りて逃げ失せける。

意訳:

古の時代、神武天皇が岩船の山を越えようとしたとき、この地の豪族・長髄彦(ながすねひこ)が襲撃してきたので、天皇一行は竹淵郷の大竹藪に隠れ、しばらくの間身を潜められた。長髄彦の目には、一行がまるで深い水の底へ消えていったように見えたため、恐れをなして逃げ去った。


解説:

初代の天皇である神武天皇(※)は日本を治めるのにふさわしい土地を求めて、日向国(現在の宮崎県)から大和国(現在の奈良県)へ向かわれました。

※この時点ではまだ天皇ではありませんが、郷社縁起に「天皇」と表現されているので、本解説でも天皇と称します。


戊午年(紀元前663年)船で大阪へ上陸し、大和を目指す天皇一行でしたが、生駒山を越えようとしたところを長髄彦という敵に襲われ、撤退を余儀なくされます。


やがて当地へたどり着いた一行は、追撃を逃れようと、近くにあった大きな竹やぶに身を潜めました。一行を見失った長髄彦は神変(じんぺん・普通には理解できない不思議な変化)と思い、恐れをなして逃げ去った、と伝えられています。


その時、天皇楯を並べて猛敵を防がせ給ふ所を、今も「たてつ表」といひてこの村の東にあり。天皇上らせ給ふ道を「神武海道」といふは、この時よりの名、今に残れり。

意訳:

長髄彦との激戦の際、神武天皇が楯を並べて敵を防がれた。その場所を「たてつ表」といい、竹淵村の東にある。また、天皇が通られた道を「神武海(街)道」といい、今もその名前が残っている。


解説:

「たてつ表」がどこを指すのかは、定かではありません。

神武天皇は長髄彦と生駒山の孔舎衛坂(くさえざか)で激突したが敗北、草香津(くさかのつ)へ撤退して楯を並べ雄叫びしたので、津の名前を「盾津」に改めた、との記述が日本書紀にあります。

現在東大阪市に「盾津」という地名が残っていますが、竹渕から見て東ではなく北東に位置するので、ここでいう「たてつ表」と関係があるのかは不明です。


「神武海道」についても同様ですが、竹渕神社と盾津を結んだ線上、JR久宝寺駅の北に「神武町」の地名が残っており、天皇一行がたどった道のりを想像させるものがあります。


(続きます)

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